SSブログ

マニラの歴史 - 第二次世界大戦 [マニラ]

1941年12月7日に日本がアメリカやイギリスと戦争状態に入り、日本軍がマニラへ迫ったことを受け、12月30日にアメリカ陸軍部隊は、市と廃止されるすべての軍事施設から退出するよう命令された。
アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー将軍は潜水艦などを乗り継いで副官らとともにオーストラリアへ逃亡し、残留したアメリカ陸軍部隊は日本軍に降伏した。マニラはマニュエル L. ケソン大統領により「非武装都市」と宣言され、同市を死と破壊から回避させた。ケソン大統領は法令を発布し、行政区域「大マニラ (Greater Manila)」を成立させ、マニラから離れた地域を安全地域として組み込んだ。
大マニラの市長にはケソン大統領の前官房長官だったホルヘ・B・ヴァルガスが選ばれた。1942年元日夕方、日本特使はヴァルガスに対し、日本軍は既にパラニャーケで野営し、翌日には大マニラに入ることを伝えた。1月2日午前9時から午前10時に、日本軍はマニラ市内に行進して入る。
ヴァルガスは、大マニラを新しい当局に委ね、残っているフィリピン人指導者たちを日本当局に紹介する仕事が任された。ヴァルガスと出席したフィリピン人指導者たちは、3つの選択肢から選ぶことを求められた。それは(1)全くの日本の軍政、(2)米比戦争の後、日本に亡命したアルテミオ・リカルテ将軍の下、ひとりのフィリピン人に任される独裁的な政府、もしくは(3) フィリピン人によって選んだ委員会による政府、というものだった。ヴァルガスと地元指導者たちは、第3の選択肢を選び、まず大マニラ、後にはフィリピン全土を統治しようとフィリピン委員会 (Philippine Executive Commission) を設立した。
1942年、ヴァルガスはフィリピン委員会の議長となり、マニュエル L. ケソン大統領統治の米国自治連邦区としてのフィリピンだった時期に労働長官であったレオン・G・ギント卿を大マニラの市長に指名した。ギントは大マニラの解放まで同市の市長職を続けた。
ギントの戦時統治下、カロオカン、ラス・ピニャス、マラボン、マカティ、マンダルヨン、ナボタス、パラニャ-ケ、パサイ、サンファンはマニラの地区とされ、マニラ市はその南側地域の Bagumbayan(ニュータウンの意)、サンパロク、キアポ 、サンミゲル、サンタクルス地域の Bagumpanahon(新時代)、 トンド地域の Bagumbuhay(新生活)、ビノンド及びサン・ニコラス 地域の Bagong Diwa(新秩序)などを併合して大マニラとなり、新しく成立したケソン市は破綻し、2つの地区に分けられた。
レイテ島の戦いの結果、1944年10月20日にアメリカ陸軍のマッカーサー将軍はフィリピンに戻り。1945年2月3日から3月3日にかけて日米両軍の間で行われたマニラの戦いのイントラムロス決戦終了後、日本軍は降伏し、完全に破壊されたマニラ市は正式にアメリカ軍の施政下へと戻された。

参照元:Wikipedia「マニラ
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。